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四元奈生美
1978年生まれ、東京都出身。4歳より母と姉の影響で卓球を始める。数々の大会で好成績を残し、2001年にプロに転向。2004年、中国超級リーグに参戦。北京チームに所属しチームの総合優勝に貢献した。試合では自らデザインしたウェアを着用。「卓球界のジャンヌダルク」の異名を取り、自らのブランド「Final Winner」を立ち上げる。 競技だけでなく、テレビ出演、講演、デザイナー等、幅広い分野で活動中。
https://ameblo.jp/naomi-yotsumoto/
※本サイトに掲載している情報は2012年2月 取材時点のものです。

INTERVIEW

中学生の頃、部活が卓球部だと言うと、友達みんなに「暗い!」って言われてたんです。これが「卓球のイメージを明るいものに変えたい」と思うようになったきっかけでしたね。この気持ちは今でもずっと持ち続けながらやっています。 自分でデザインしたウェアも、卓球のイメージを変える手段の一つです。自分の思いを形にしたら、あとはひたすら突き進むだけ。このやり方は昔から変わりません。

目標があれば過酷な練習も乗り越えられる

四元奈生美

卓球を始めたのは4歳ぐらいだったと思いますが、正確には覚えていないんですよね。物心がついた時にはもうラケットを握っていたので。いつも母と姉に連れられて卓球場に通っていて、それが私にとって当たり前の日常でした。

独自のユニフォームを着るようになったのは、実は中学生の時です。試合のユニフォームを決めるために部員たちとカタログをめくったけれど、どれもピンとくるものがなく、「それなら作ろう」と言い出したのが始まりでした。好きなものを着たい!という単純な動機でしたが、思っても実行に移す人はいませんでしたから、珍しかったんでしょうね。自作のユニフォームは、男子からも女子からも注目されましたし、可愛いと好評でした。

高校3年生の夏ぐらいまではただ卓球が楽しくてのびのびやっていました。試合に勝てばうれしいですし。卓球への取り組み方が変わったのは、世界チャンピオンに会った時です。ただならぬオーラを感じましたし、こんなふうになれるなら真剣にスポーツをやる価値があるな、とその時初めて思ったんです。それ以来、昼夜練習に明け暮れました。練習場で朝を迎えたこともあります。合宿では、深夜0時から総リーグ戦が始まるようなこともありました。私はエースだったので、靭帯が切れて辛くても痛みを堪えて戦い続けました。目標ができたら、それに対して徹底的に突き進む信念だけは妙に強いんですよね。この信念が続く限り、ずっと進んでいけると思っています。

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「卓球のウェアが一番かわいい」と言われたい

大学卒業後、女性初のプロに転向しました。卓球界では、どこかの企業に所属するのが一般的でしたが、卓球のイメージを変えていくためには、周りと同じことをしていてはだめだと思ったんです。プロ1年目からさっそくウェアの改革に乗り出しました。デザイン画を描いてメーカーに持っていくんです。2007年の全日本選手権大会で着用したユニフォームは「生まれる」というテーマで、左肩を大胆に出したデザインのもの。注目は集めましたが、たびたび審判長に呼び出されましたし、髪飾りのマーガレットを注意されてしまいました。でも、髪飾りも含めたトータルコーディネートなので、取ったら意味がない、絶対に取るわけにはいかないと思い、意志を曲げませんでした。

次の試合では、髪に羽根飾りを付けたいと思っていたんです。でも前回注意されたし、また怒られるだろうなあとロッカールームで悩みました。ふと、「ここで折れたら、四元奈生美じゃない。ここまで頑張ってきたのに、今さらこんなところで怖気づいてどうするんだ!」と吹っ切れたんです。それで、大きな羽根飾りを付けて堂々とコートに出て行きました。試合の後、世界卓球連盟の会長が「今の卓球界にはウェアの改革が必要。あなたの取り組みは素晴らしい」と評価してくださったんです。自分がやってきたことは間違いじゃなかったと分かってうれしかったですね。自分の気持ちを曲げずにやりきって本当によかったと思いました。

「卓球のウェアが一番かわいい」と言われるようになることが今の私の目標です。最近はそのためにデザイン学校にも通って勉強したので、デザイナーの仕事にもさらに注力していきたいですね。卓球がもっと明るく、メジャーなスポーツになるように自分にできることをこれからもやっていきます。目標に向かって突き進んでいると大変なこともたくさん出てきますが、自分らしく信念を持って、周りに流されることなく頑張っていきましょう。

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