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安田正介
1950年生まれ、東京都出身。一橋大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社に入社。執行役員機能化学品本部長、中部支社長、常務執行役員を経て、 12年に株式会社サンゲツの社外取締役に就任。14年、代表取締役社長。
https://www.sangetsu.co.jp/
※本サイトに掲載している情報は2015年12月 取材時点のものです。

INTERVIEW

人は何のために働くのか。簡単に結論が出ることではないと思います。私も、なぜここで頑張っているんだろうと65歳の今でも分からなくなることがあります。 でも、大変なことがあってもこうして頑張ることが好きだし、仲間と協力して少しでも物事が前進すればうれしいし、それが自分にとってのやりがいなのだと思います。 学生の頃のように試験を乗り越えれば楽になるようなものではなく、永続的に課題をこなしていかなくてはならないのでやはり大変です。 でも、それを乗り越え続けることが仕事をするということなのだと思います。

海外で仕事をしてみたくて

安田正介

東京で育ちました。私が子供の頃はまだ山だったので、毎日山の中を駆け回り秘密基地を作って遊んでいましたね。 一方、勉強や運動はパッとしなくて、あまり出来のいい子ではありませんでした。

中学生の頃、素行の悪い友達に流されて荒れた時期がありました。ある時、悪事が学校にばれてあわや停学か退学かという事があったのですが、 私の父が学校に出向いて頭を下げてくれたんですね。父は私を責め立てることはしませんでした。一言だけ「俺は情けない」とつぶやいたんです。 この一言には、怒鳴られるよりも応えましたね。「叱りつけるよりも、本人が自覚して変わらないと意味がない」と父は思ったそうです。 それ以来、私も道を外れるようなことはなくなっていきました。

大学生の頃、海外で仕事をしたいと思うようになりました。叔父が海外で仕事をしていて、話を聞くうちに影響を受けたのです。そこで選んだ就職先が、三菱商事でした。 新人の頃は大阪支社に配属されたのですが、仕事の思い出よりも寮で仲間と遅くまで飲み騒いだことが印象に残っています。 楽しかったのですが、このままずっと大阪にいては自分のやりたいことはかなわないと思い、ドイツの語学研修生に応募しました。

ドイツで過ごした2年間は、日本人と接する機会もなく孤独でした。一人で考え込む時間が長かったです。 現地の学生たちはみんなドイツ語、英語、フランス語ぐらいは話せるので、私も置いて行かれないように必死でした。いろんな国籍の人と付き合ったのはとても勉強になりましたね。 今思うととても意味のある大きな2年間でした。

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取引先だったサンゲツの役員に

帰国後は、海外との取引がある部署で仕事をしました。何カ国も訪れ、様々な商品を携えて様々な人と交渉を重ねました。やりがいを感じられて幸せでした。 でも、この仕事の本当の面白さを知ったのは50歳を過ぎて事業投資や組織運営に関わるようになってからですね。 それまでは充実感はあったものの、自分に商売のセンスがあると思えず、実は商社勤めに向いてないんじゃないかと悩んだことも何度かありました。

サンゲツは取引先の一つでした。私が担当者として出入りするようになり、先々代社長である日比賢昭氏と顔見知りになりました。 その後、三菱商事を退職した時に、サンゲツの社外取締役になってほしいと声を掛けていただいたんです。ところが、強力なリーダーシップを発揮していた先々代がその後亡くなり、 会社全体の運営方針が見えなくなってしまいました。それまで組織としてまともに経営計画を立てたことがないような状況だったので、まずは私も加わって中長期計画を策定しました。 社員を枠にはめるのではなく、社員一人ひとりが自発的に考えてほしいという気持ちをこめています。

サンゲツは赤字になったことこそありませんが、売上は90年代半ば以降横ばいが続いています。 今の20代の社員が40~50代になる頃、今のビジネスモデルを維持するのはおそらく困難です。14年に社長に就任しましたが、 私の役割は、10年後、20年後の事業の方向性を明確にして示していくことだと思っています。短期間で大きな飛躍ができるとは思いません。 今は事業基盤の整備や事業戦略の再構築に注力しているところです。

仕事は楽しいことばかりではなく、大変なことの方が多いかもしれません。私もそうでした。問題や課題は次々に噴出し、その度に不安を抱くものだと思います。 でもそこから目をそらすと問題はますます大きくなるばかり。抱える不安に果敢に向き合い、難しいことにも挑戦することが、仕事を進めていく上での近道であり、 やりがいをもたらす唯一の道だと信じています。

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