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柳弘之
1954年生まれ、鹿児島県出身。東京大学工学部卒業後、ヤマハ発動機に入社。アメリカ、フランス、インドなど海外の現地法人で18年間の海外勤務を経験した。生産本部長などを経て10年に代表取締役社長に就任。
https://global.yamaha-motor.com/jp/
※本サイトに掲載している情報は2016年11月 取材時点のものです。

INTERVIEW

若い頃、海外に赴任して様々な環境や文化の市場を見てきましたが、どんな場所でもうちの製品は独自の存在感を発揮していて、ヤマハは面白いなと肌で感じたんです。この面白さをもっと追求していこうと思いましたね。「普通の会社ではありたくない」ということを会社でもよく言っています。私たちが製品を作るのは、「感動」を生み出すため。期待通りでは人は感動しません。期待を超えるものを作るために、これからもヤマハらしさを大事にしていきたいです。

船と海外に憧れを抱いて

柳弘之

海のそばで育ったせいか、幼い頃から船が好きでよく船の絵を描いていたようです。高校生の時に南極観測船を間近で見たことは今でもよく覚えています。船の中にエンジンルームや観測室、居住空間が整然と設計されていて、その機能的な美しさに感動したものです。 大学に進学して船の勉強をしながら、こんなに大きなシステムの塊を自分の手で作ってみたいと思いました。就職先として考えていたヤマハは、ちょうど海外進出に力を入れ始めたところでした。ものづくりと同時に海外への強い憧れも持っていた私にはまさにうってつけの会社だと思いましたね

入社後は海外生産部に配属され、3年目にアフリカで工場を立ち上げるプロジェクトのメンバーに抜てきされました。これが私にとって初めての海外です。工場を何もないところに一から造るので、建物や設備だけではなくラインの流し方や管理システム、物流などあらゆることを計画せねばならず大変でしたが、勉強になりましたね。それがひと段落した頃、社内の海外留学制度を利用して、学生の頃から夢だったアメリカへ渡りました。若くして夢が実現し、楽しく充実した日々を過ごしました。

しかし、30歳を過ぎてアトランタで工場建設に携わった時は、壁にぶつかりました。現地のものづくりのやり方や図面の描き方が日本とまったく違うのです。日本のようにあうんの呼吸とか、行間を読むということは通じません。「これで分かるだろう」という思い込みを捨て、伝わりやすいコミュニケーションや図面の描き方を勉強してどうにか乗り越えました。それ以来、国内外関係なく丁寧なコミュニケーションを心掛けるようになりましたね。伝えたいことがある時は、相手に理解してもらうために最大限の努力をするべきだと思います。

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私たちには、心の故郷(ふるさと)がある

生産本部長としてグローバルの生産を統括していた頃、リーマンショックが起こり金融危機が深刻化しました。わが社でも過剰な在庫や生産設備が顕在化していたので、構造改革チームを作って今後の方向性を数カ月でまとめたのです。日本、アメリカ、ヨーロッパを中心に先進国の生産台数や在庫をスリム化し、3年間で数百億円のコストダウンを目指しました。同時に新商品の開発を一旦止め、今ある製品を見直して思いを込めたものづくりをしようと決めました。

社長に就任したのはその時期です。チームで方向性を固めていたので、あとは断行するだけ。それほど大きなプレッシャーはありませんでした。その後V字回復を果たすと、次に「ものづくりで輝き存在感を発揮する会社になろう」と目標を掲げ、さらに輝くために「ヤマハらしさを極めよう」と訴えました。ヤマハらしさとは本来の独創性、洗練されたデザイン、軽量や低燃費を実現する技術力に集約されているものです。

リーマンショック以降の製品が順調に売り上げを伸ばしているのは、この「ヤマハらしさ」への回帰を目指したからだと思っています。ヤマハらしさは私たちの心の故郷。これがあることは会社にとって非常に大事なことなのです。心の故郷と言っても、懐古するのではなく、そこに新しい価値を加えていかなくてはなりません。チャレンジ精神がなければ、沈み続けるだけです。

国内外で経済の先行きが不安視されていますが、世界市場には新しいビジネスチャンスがたくさんあると思います。日々、肌でそれを感じます。若い人は日本にとどまらず、世界に飛び出してグローバルな舞台に挑戦してほしいですね。挑戦の場は無限にありますし、そんな挑戦をする時が皆さんが輝くときです。

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