- 矢倉信勝
- 1961年生まれ。大阪府出身。81年、エール・リカレント・ビジネス学院経理本科卒業後、小林住宅株式会社に就職。約2年間の勤務を経て、83年に矢倉運輸倉庫株式会社に入社。88年、矢倉物流サービス株式会社を設立。現在に至る。
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当社は一般貨物運送業を行っております。業界は今、深刻なドライバー不足に陥っています。社会に無くてはならない運送業ですが、現状は天災時には物資を届けることもままならず、支援も十分に行き届きません。さらに世間を見渡すと、ドライバーの地位はまだまだ低いように感じます。だからこそ私は、ドライバーという職業の存在意義を高め、労働環境の是正なども絶えず考えていかなければいけないと思っています。運送業の重要性に気づいてもらうことが、私の原動力にもなっているのです。
当社は創業から47期目を迎え、私で2代目となりました。幼い頃から父の背中を見て育ってきたため、業界での知見も豊富にあることが、経営者である私の強みでもあります。物流機器なども数多く取りそろえ、昨今では重量物運搬にも着手。できることは全てやるという信念が根付いていることも、当社の特徴の一つと言えるのではないでしょうか。お客様が困っていれば安易に断るのではなく、まずはやってみること。それこそがドライバーとしてのあるべき姿だと思うからです。
私は幼い頃から、自ら責任を持つということを大事にしてきました。小学校から高校時代まで生徒会長を任されていたことも、強い責任感につながっているのかもしれません。
また私の学生時代は、引越しも運送会社が請け負うことが一般的だったため、当時は父の手伝いがてら引っ越しのアルバイトにも精を出しました。一仕事を終えた後には、お客様から「ご苦労さん」と声をかけられることもよくありました。運送業は人に喜ばれる仕事なのだという実感は、その頃から感じておりました。そうした感謝される喜びが仕事のやりがいにつながり、人のためになる仕事をやり続けていきたいと思うようになっていったのです。
その後、「人よりも早く社会に出て役に立ちたい」という一心で、経理学校で簿記を学んだ後、住宅会社に就職。社会人としての一歩を踏み出しました。それから2年が経過し次の道に進もうと思い仕事を辞めました。
ゆっくり過ごしてから転職活動をしようと考えていた矢先、翌朝に母から「今日忙しいから手伝ってあげて」と無理やり叩き起こされたことがきっかけとなりいずれは父の後を継ぐことも頭にありましたから、そこで一念発起。再び運送業界に足を踏み入れ、私の新たな人生をスタートさせたのです。
ドライバーとしての経験を積み、倉庫での仕分け作業にも従事した後、倉庫業を分社化。倉庫担当時代であった1985年には、神戸製鋼より「物流改善による工場長銀賞」を授与された経験もあります。
当時から変わっていないことは、「ドライバーよし・お客様よし・会社よし」という三方よしの精神を守り抜いてきたこと。とくに人に感謝することの大切さは、ずっと意識してきました。
最近の出来事では大雪の最中、夜遅くになってお客様から依頼の電話をいただきました。大阪から石川まで、大型の空調機を配達してほしいという依頼です。しかし車はあるがドライバーがいない。国道も大雪が積もった状況です。揚げ句、トラックのタイヤはスタッドレスを履いておらず、お断りしようかと何度も思いましたが「お客様のため、人の役に立ちたい」という思いが強く、すぐさまルートを下調べし、やればできるという思いで自らハンドルを握り、トラックを走らせました。そしてなんとか無事に運搬することができ、完了した時には「矢倉さんには足を向けて寝られない」と、お客様から感謝の言葉をいただきました。やってよかったなと思える瞬間です。
自分の欲ではなく、自分の出来る範囲で人助けをするのは当たり前のことです。だからこそ社員も大切にしていきたいです。ドライバー同士はLINEでグループを作り、常に何か問題があれば助け合う風土も根づいています。そして東大阪で、働きがいのある会社ナンバーワンを目指していきたい。
若い方々に向けて何より伝えたいことは、「仕事を楽しもう」という意識を持ち続けてほしいということです。楽しむ意識に切り替えれば、何も苦になりません。その積み重ねが自分の肥やしになると思いますし、あの時に頑張ってよかったなと思えることも多々あるはずです。実際に私もたくさんありました。
そして若い時にこそ人一倍動き、人のために働いてほしい。運送業は人のために荷物をお届けする、社会にとって欠かすことのできない仕事でもあります。
私自身は、運送業が最も社会に貢献しているのだという自負を持って仕事に向き合ってきました。ボランティア精神を持つ若い方々とともに、これからも社会貢献を続けていきたいですね。
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