- 碓井稔
- 1955年生まれ、長野県出身。東京大学工学部卒業後、自動車関連企業から信州精器(現セイコーエプソン)に転職し、プリンターの技術開発を手掛ける。「マイクロピエゾ」方式のインクジェットプリンターなどを開発。生産技術開発本部長、常務取締役などを経て、08年社長に就任。
- https://www.epson.jp/
「ものづくり」の分野で世の中にないものを作り出し、世界に貢献することが日本の役割だと思います。これからの日本を背負っていく若い皆さんがその大きな原動力になってくれるものだと私は確信しています。皆さんもその自覚を持って、社会の一員として頑張ってくださいね。
子供の頃は医者になりたいと思っていました。骨折で入院した時に、病院で良くしてもらったことが印象に残っていたんです。理数系の科目が好きで、ノーベル賞を取るような科学者にも憧れていましたね。研究者になることも考えましたが、学問を究めるよりは現場で形になるものを作り上げていきたいと思い、就職を決心しました。大学では工学部で船舶工学科を専攻していたのですが、入社したのは自動車関連企業。当時はオイルショックの影響などで造船会社を中心に就職状況が良くなかったのです。専門分野にこだわっていられる状況ではありませんでした。
研修中、40歳ぐらいの上司からいろんな話を聞く機会がありましたが、話の端々から「自分たちが若い頃に汗をかいて会社をここまで大きくしてきた」というプライドと喜びをひしひしと感じました。ふと、すでに大きくなったこの会社で自分が上司ぐらいの年齢になった時に、そんな気持ちで働いていられるだろうかと疑問を感じたんですよね。
帰省した時、地元企業である信州精器(現セイコーエプソン)の求人広告がたまたま目に留まりました。当時はまだ小さな工場だったのですが、クォーツ腕時計をはじめ独自設計の機械式腕時計を次々に開発して伸び盛りの企業だなという印象はありました。さらに求人広告には、半導体やプリンターなどの分野にも進出するようなことが書いてあったんです。既存の事業に拘泥せずに新しいものにチャレンジしていくんだという気概が感じられました。
私は画期的な商品を世に送り出す現場に立ち会いたい、第一人者でありたいと常々思っていたので、ここならチャンスがあるかもしれないと思い応募してみました。
転職後は技術者として商品開発に携わりました。印象に残っているのは、電卓用プリンターを改良したことですね。当時はハンマーで紙を打ち付ける方法で印字していたので、音が非常にうるさかったのです。音を小さくするには紙を押さえるしかありません。そこで電卓の筐体(きょうたい)部分で紙をうまく押さえながら排出できる仕組みを考案して電卓メーカーに提案したところ、非常に喜んでもらったんです。プリンターは単体で使うものではないし、印字音を抑えることで最終的にユーザーが満足してくれればいいんですよね。お客様の要望や期待を真摯に受け止めることの大切さ、自分の仕事の範囲でなくても与えられた責任を果たせることを実感した出来事でした。
入社当初は電卓用プリンターの設計開発が主でしたが、その後はビデオプリンターやインクジェットプリンターの開発も担当し、マネジメントや生産技術責任者などを経て社長に就任しました。当時は技術者の立場から見て、我が社の“エネルギーを省く”“モノを小さくする”“精度を追求する”「省・小・精の技術」という強みを発揮するには、ほど遠い状態でした。一人ひとりは力を持っているのに、全体としての力が発揮できていなかったのです。我が社の強みが何なのか全員で認識を共有し、方向性をそろえていく必要性を感じました。
例えば、当時はプリンターの製造を外注に頼っていました。プリンター事業のコモディティ化でコストダウンが余儀なくされ、自社で作れるにもかかわらず安いメーカーに委託して低コスト化を実現しようとしていたのです。このような事業構造を改めるべく、すべて自社製造に切り替えました。低コストで作れるように設計から徹底的に見直したのです。
お客様の期待をどれだけ超えられるかということに会社の将来は懸かっていると思っています。その覚悟はまだまだ不十分なところもありますが、社内に根付いてきていますし、全体の方向感は定まってきたと思います。「省・小・精の技術」にこだわり、お客様の期待を超える商品やサービスを産み出していきたいですね。
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