- 植木義晴
- 1952年生まれ。京都府出身。父は俳優の片岡千恵蔵。75年航空大学校卒業後、パイロットとして日本航空に入社。94年に機長となる。 10年、経営破綻後に稲盛和夫会長の下、執行役員運航本部長に就任。12年、国内で初めてパイロット出身の代表取締役社長となる。
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日本航空は親方日の丸だとか無責任体質だとか言われた時期もありました。再建後も、会社が昔の体質に戻ることはないのかとよく心配されますが、 私は入社して35年間パイロット一筋で、会社のそういう部分とはかけ離れたところにいたので昔の体質を知らないんですよね。だから、戻りようがないと思っています。 周囲をすべて敵に回しても自分の信念を押し通す勇気は、パイロット人生の中で培ってきました。 自分のことを冗談めかして「偉大なKY」なんて言っていますが、KYじゃないと物事は変えられないしイノベーションは生まれないでしょう。個性を持ってぶつかりたいですよね。
私の父は東映の映画俳優でした。子供の頃は、休日になると自宅近くにある東映の撮影所に兄弟で入り浸り、刀や手裏剣でチャンバラごっこをして過ごしました。 最高の遊び場でしたね。母は、私のしたいことに絶対に反対しない人でした。法に触れることや人に迷惑を掛けることでなければ、何でも応援してくれました。 バイオリンを習いたいと言うと、その日のうちに楽器屋に連れて行ってくれたこともあります。 ただし、自分でやると決めた以上、3年は続けるのが約束でした。この教育方針のおかげで「自分のことは自分で決める。 決めたからには責任と覚悟を持つ」という習慣が染みついたと思っています。
高校2年生の夏休み、ふと思い立って一人でヨーロッパを旅行しました。母に買ってもらったオープンチケットで3カ月近くも滞在し、現地で多くの友達もできました。 彼らと再会するためには将来どんな職業に就けばいいかと考えて思いついたのが、パイロットだったんですよね。 パイロットになりたいと母に言うと「きっと大変だと思うけど、あなたは本気なのね」と念を押され、その週末に宮崎の航空大学校を訪ね、入学を目指しました。
パイロットを志す人の大半は、子供の頃から空や飛行機が好きだったと思うのですが、私の経緯はちょっと特殊ですよね。 でも訓練を受けて飛行機に乗っているうちに、誰よりも飛行機が好きになりました。だから長続きしたのかもしれません。パイロットとして日本航空に就職し35年間飛び続けましたが、 命をかけて仕事をするということを身に染みて知りました。500名のお客様の命を預かっていて、自分の判断を一つ誤ればその命を一瞬で失ってしまう可能性だってあるのですから、 本当に命がけです。だからこそこの仕事が誇りでしたし、それが自分の価値だと思っていました。
57歳まで飛行機を飛ばすことしか知らなかった私が役員のオファーを頂いたのは、2010年の経営破たんの時でした。パイロットとして定年を迎えるつもりでしたし、 私の人生のすべてともいえるパイロットの仕事を捨ててまで役員になるべきか、三日三晩悩みました。 そして、パイロットを辞めたとしても、会社の再建のために命がけで取り組めるなら死ぬ時に悔いは残らないだろうと思ったので、オファーを受けることにしたのです。
愛社精神なんて大それたものではありませんが、私は周りの仲間を愛していました。泥船の中であがいている仲間たちのために私にできることがあるなら何でもしたいと思ったんですよね。 まず、会社は実質つぶれたのだということを全社員に認識してもらい、一人ひとりが「自分が変わらないと会社は変わらない」という意識を持つことが必要でした。 うちの社員の大半は現場の人間。お客様の反応をダイレクトに見ることができるので、この意識改革が正しいことを短期間で実感できたのでしょう。 社員の魂は本当に入れ替わりました。だから私は社長となった今、自信を持ってこの会社を運営していけるのです。
元来、経営と現場に距離がある会社だったので、破たん後は主役である現場の社員を大切にすることを心がけています。そうすると、現場の信頼を集めて扇の要となる人物が必要です。 だから現場一筋だった私を社長に選んでいただいたのだと思っています。
私が絶対に失ってはいけないのは社員からの信頼。それを失えばこの会社はおしまいです。 財務や事業戦略のことを考えられる役員は私の周りに大勢いるので、私の役割は社員の心をしっかりつかむことだと思っています。結局、経営者の仕事ってそれに尽きると思うんですよね。
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