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塚本勲
1943年生まれ。石川県出身。金沢工業高校を中退後上京し、電子部品メーカーに就職。工場内作業、営業などを経て68年に加賀電子を創業。代表取締役社長に就任し、97年に東証一部上場。07年、代表取締役会長に就任。
https://www.taxan.co.jp/jp/
※本サイトに掲載している情報は2014年12月 取材時点のものです。

INTERVIEW

うちの社員によく話すのですが、ビジネスはお金がなくても始められるんですよね。私が創業当初の苦しい時期を乗り切れたのは、人とのつながりを大切にしてきたからだと思っています。知識だとか人との縁のようなものは形であらわすことはできませんが、大事な財産です。こういった無形の財産をたくさん形成できれば良いビジネスができるようになるし、独立のための武器にもなると思います。

都会で働きたくて上京

塚本勲

子供の頃は腕っぷしが強くガキ大将でした。兄弟は男ばかり5人。一家でよく千里浜にでかけ、魚や貝を獲り自給自足に挑戦したりしました。小・中学校の頃の成績は良く、学年で5番以内には入っていたと思います。高校は就職に有利な電気科へ進学しました。

夏休みに大阪の親戚を訪ねた時、梅田で見た都会の景色に衝撃を受けました。さらに大阪から帰ると、中卒で就職した同級生がお盆休みで帰省していて、数か月の都会生活ですっかりあか抜けて見えたんですよね。私も東京か大阪のような都会で働いてお金を稼ぎたいと強く思うようになり、親を説得して高校を中退しました。

イガグリ頭に学生服のまま上京し、東京の叔父の家に下宿して、中野にあった可変抵抗器メーカーに就職しました。2年ほど工場での組み立て作業を続け、運転免許も取ったしそろそろ地元へ帰ろうかと思った時、上司に「せっかく運転免許を取ったのなら営業で頑張ってみたらどうだ」と言って頂いたんです。営業に移った途端、水を得た魚のようにうまくいき始めました。営業の仕事が肌に合っていたのでしょうね。

営業で秋葉原の電子機器メーカーを訪れると、自分の会社の部品以外にも多種多様な部品が合わさってステレオやテープレコーダーが作られているのを目の当たりにしました。次第に、もっとたくさんの部品を扱ってビジネスを大きく展開したいという思いが強くなり、営業に移って6年目に独立を決意しました。自分の給料ぐらいは自分で稼ごうという気持ちもありました。

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資金ゼロからのスタート

弟と二人で起業することを決意し、実家に借金を頼み込むと、父は「これが最初で最後だぞ」と言ってお金を用意してくれました。後から聞いた話ですが、父が友人、知人に頭を下げてなんとか工面したお金でした。加賀電子という社名は、母が「加賀百万石の出身なんだから100億円くらいの大きな商売が出来る会社になるといいね」と言ったのに由来します。

しかし事務所の賃料や備品購入で資金はすぐに底をつき、運転資金はゼロ。あったのは人脈という無形の財産だけでしたね。お客様には正直に事情を説明し、「最初の取引だけ前払いにしていただけませんか」と頭を下げて回りました。得意先から頂いた代金を仕入先に払い、仕入れた商品はどんなに遅い時間になってもその日のうちに必ず得意先に届けるようにして、何とか乗り切りました。しばらく自転車操業が続きましたが、無線機や家庭用ゲーム機などのブーム到来も相まって時代の波に乗ることができ、事業を軌道に乗せることができました。

技術革新の激しい業界で商売を続けるのは大変です。対応が遅れたり勉強を怠ったりするとあっという間に業績が悪化してしまう世界です。私たちが時代の変化にうまく対応できたのは、お客様の要望があるものはどんなものでも取り扱おうという考えで仕事をしてきたからかもしれません。お金も社会的信用もゼロからの出発だったので、とにかくお客様の要望に応えることだけを考えてやってきました。

創業以来、「会社は稼ぎに来る場所」だと社員に言っています。会社の存在意義はもちろん社会貢献のため、株主のためでもあるけれど、基本的には社員たちが生計を立てに来る場所だと思っています。だからこそ、赤字にならないようにみんなで頑張らなければいけません。社員には縁あってうちに来てもらっているので、家族のように思っています。

若さは特権ですが、勉強や努力をしなければ実を結べません。若い人たちには色々な経験を積みながら、自分自身を磨き上げてほしいと思います。仕事は日本だけではなく世界中にあります。視野を広く持ち、グローバルに活躍できる人になってほしいですね。

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