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鈴木喬
1935年1月18日生まれ、東京都出身。59年に日本生命保険相互会社入社し、法人営業のトップセールスとして活躍。86年にエステー化学株式会社に入社。98年に代表取締役社長兼営業本部長に就任。社長就任後は、商品の品種数を3分の1に絞り、これまで「世にない商品」を投入するなどの大胆な経営改革により、高収益体質をつくりあげる。
https://www.st-c.co.jp/
※本サイトに掲載している情報は2012年4月 取材時点のものです。

INTERVIEW

昨今、「大変な時代だ」と嘆かれることが非常に多くなりましたが、私が育ってきた時代に比べてものすごく豊かですよ。もちろん仕事をする上で、命までは取られませんし。ですから、思い切ってやりたいことをやってみたらどうでしょうか。何もしないということが、最大の問題だと思います。自分の「運」と「勘」と「度胸」を信じてやってみることですね。

夢は商人?

鈴木喬

戦時中に東京の家は焼かれ、兄たちは皆戦争に連れて行かれました。私自身は、小学校4年生の頃から働き始めていましたね。父と一緒に露天商をやっていたんです。焼け跡の中で、靴もない中……。ですから、夢どころの話じゃないですよ。白いご飯をお腹いっぱい食べてみたいな、と思っていました。

大学に入る頃は商人になりたいと思っていて、叔父に勧められて一橋大学に進学しました。ところが大学に行っているうちに、いわゆる「サラリーマン」の方が楽そうだと思うようになりまして……(笑い)。実家では雑貨屋をやっていて、兄の下で働いていても仕方がないので、どこか会社に勤めて、サラリーマンになろうと思っていました。そして、就職したのは日本生命でした。

当時の日本生命というのは、個人保険ではトップだったものの、法人保険では後塵を拝するわけです。そこで私がリポートを書きまして、「こういうことをすればナンバー1になれる!任せろ!」と、プレゼンテーションをしたんです。それまで営業の経験も全くないですし、支店にもいったことが無かったんですけどね……(笑い)。私はいつも物議を醸していました。

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私は、ある種の「壊し屋」

ある時ですね、エステーの創業者である兄が私の所へ相談に来ることがあったんです。株式を公開したいという兄の言葉を受け入れ、エステー化学(当時)に入社しました。しかし、直後から経営方針には不安を抱いていました。この企業はただ膨張しているだけで、このまま行くと潰れてしまうのでは、と感じていたのです。事あるごとに警鐘を乱打していましたよ。日本国中、高度経済成長に酔いしれている時だったので、私の意見を聞き入れる人はほぼ皆無でした。

その後、バブルが弾けたんですね。何とかなると思っていたら、どうにもならなくなりまして。「じゃあ、あのとんでもない奴に任せるか」ということで、私にお鉢が回ってきたんだと思います。社長に就任してからは、「コンパクトで筋肉質な会社」をスローガンに掲げ、商品や役員数の削減、工場の閉鎖など、体質強化を目指していきました。2007年に一度会長に退きましたが、リーマンショック以降の危機に対応するため、2009年4月、社長に復帰しました。最近行っているのは、「STR(エステーリフォーメーション)」という経営改革の一環で、現場の底上げと部門間連携の強化です。私も非常に反省しているのですが、社員たちはきっと、人間としてのコミュニケーションに飢えていたのかもしれません。業績を重視するあまり、「人」の存在を忘れていたのかもしれません。ここを強化することにより、現状のエステーとなりました。

「不況だ不況だ」と嘆かれていますが、この状況は絶好のチャンス。100年に一度の不景気なんて言っていますが、私は寝言だと思っているんですよね。悪いような気がしているだけの話で、自信喪失しているだけなのではないでしょうか。今まで連綿として、「これで良いのだ」と思い込んでいること自体が問題だと感じていたので、一つひとつそれを打ち壊していったんです。私はある種の「壊し屋」ですよね。

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