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島田眞路
洛星中学・高等学校卒業後、1971年、東京大学理科三類に進学。77年、同大学医学部皮膚科学教室文部教官助手を務める。83年から87年、NIH(米国国立衛生研究所)に留学。91年、東京大学医学部付属病院分院皮膚科科長、助教授を歴任。95年、山梨医科大学教授に就任。88年から2008年まで、日本研究皮膚科学会では理事を務める。02年、山梨大学医学部付属病院で感染対策委員長に抜てき。08年には国際研究皮膚科学会会長、09年には山梨大学医学部付属病院の病院長などを歴任。12年から18年まで日本皮膚科学会理事長を務める。15年から23年、⼭梨⼤学学⻑を務め、現職に⾄る。
https://www.rakusei.ac.jp/
※本サイトに掲載している情報は2025年1月 取材時点のものです。

INTERVIEW

私の座右の銘は「真実一路」。正しいと思った道を信じて突き進むことを大事にしています。今まで私はあらゆる場面で自分の持つコンセプトを磨き、情熱を推進力とすることで人々に貢献してまいりました。

野球が紡いだ縁

島田眞路

京都市北区に位置する洛星中学校・高等学校は私が卒業した母校であり、当法人の運営する教育機関です。その母体は、カナダカトリックの聖ヴィアトール修道会。私は同校の14期生でした。

私が学生だった時、洛星は大多数の生徒が京都大学を目指す学校でした。私は医学部を目指していましたが、やはり同じく京大を目指すように教師から促されたのです。そのような中、東京大学に挑戦したい思いも芽生えはじめました。しかし京都では、当時東大進学にまつわる情報へのアクセスが困難でした。徐々に周囲から情報を得て、予備校の模試を受けてみると、1回目は合格確実圏、2回目も同様で、疑心暗鬼が確信に変わっていったのです。今まで皆勤だった私ですが、模擬テストを受けに文化祭を欠席。加えて、教師からの反対もありましたが、自分の信念を貫き、当時、洛星で初めて現役で東京大学理科三類に合格したのです。

大学入学後も勉学に励み続けていた私ですが、体調を崩すようになり、変化を求めました。私は中学と高校時代に野球経験があったので、東大医学部の野球部に入部し、5年生の時にキャプテンも務めました。東大では医局がそれぞれチームをつくっており、対抗試合も行っていました。そして、私の所属する野球部は医局対抗試合の審判役に。その中で、野球好きな皮膚科の教授とご縁ができたのです。段々と親しくなり、教授の専門分野である皮膚科の道に進むことになりました。

後に、私はNIH(米国国立衛生研究所)に留学するのですが、野球経験はここでも生かされました。毎年、NIHの野球チームは海軍病院の野球チームと試合を行っていたのです。相手のチームには屈強な若者が多く、NIHは毎年苦戦していました。そこで私がNIHのチームに合流すると、試合でパフォーマンスを最大限発揮し、初めて勝利し活躍が認められたのです。当初は慣れないアメリカ生活に四苦八苦していましたが、溶け込めるきっかけとなった印象深いエピソードです。

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感染症対策の基礎構築に組織改革、よりよい未来のために尽力

2002年、様々な国で猛威を振るったのがSARS。私は山梨大学医科部附属病院で、感染対策委員長を務めることになりました。SARSはコロナウイルスの中でも強力で、非常に警戒していたのです。結果的に日本で流行することはなかったのですが、その取り組みが後のCOVID-19対策につながることになりました。

20年、ダイヤモンドプリンセスの一件もあり、COVID-19は確実に日本で感染が広がるだろうと私は確信していたのです。実は当時、時を同じくして山梨大学の附属病院では旧病棟を取り壊し、新しく建て替えようという動きがありました。そこで、私は取り壊しを待ってもらうことで病床を確保したのです。また、ワクチン接種やPCR検査も迅速な初動体制の確立に努めました。行政の介入だけでは難しい面もあったため、私たち大学が支援に入ったのです。様々な団体から要望がありましたが優先順位を定め、コロナ禍における感染対策に大きく貢献できたと思います。

さらに、軽症と重症の間にある患者さんに対しては、ホテルを活用しました。患者さんにはシングルの個室を使っていただき、看護師が検温や酸素濃度の測定を行うのですが、記録には全て紙を使っていました。一方で、患者さんは増加の一途。何百人単位を紙で管理することは難しいと判断しました。そこで体温や酸素濃度のほか、患者さんの要望をスマホで入力できるシステムを開発したのです。すぐさまホテルでシステムの運用を開始すると、うまくいったため、次のホテルでも運用。合計で3つのホテルを大学で運用し、結果的に1万人以上の患者さんを診ることができたのです。その取り組みが評価され、2023年山梨県政特別功賞を受賞することとなりました。

そして、臨床現場のみならず、私は研究や組織改革にも注力しつづけてきました。まず、日本研究皮膚科学会では理事長として数々の改革を行い、組織の活性化に貢献。主に発展性と透明性を高めることを目標に着手したところ、同じ理念を持つ人々の支えを得ることができ、研究レベルが格段に上昇しました。次に、08年には国際研究皮膚科学会で会長を務めたこともあります。同学会はもともと、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本、それぞれの皮膚科学会が5年ごとに持ち回りで開催していたのです。アメリカ、ヨーロッパと対等のレベルで開催することに成功しました。さらに、昨今ではほかのアジア圏の国や地域も加盟の動きを見せており、日本に機会が巡ってくるのは困難と思われていたのです。しかし、私が会長を務めた15年後の23年、再度日本に招致することがかなったのです。次世代にバトンを渡すこともでき、学会(京都大学の椛島健治会長)は大成功。私の研究人生の集大成といえる出来事です。

今後は当法人が運営する洛星のため、今まで行ってきた改革の経験を惜しみなく生かしていきたいです。目標は洛星を「京都で一番入りたい学校」にすること。若い世代の方々にもバトンを渡せるように注力してまいります。

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