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千本倖生
1942年9月9日生まれ、奈良県出身。大学院修了後、日本電信電話公社(現NTT)に入社。42歳で退社後、84年稲盛和夫(京セラ創業者)と共同で第二電電株式会社(現KDDI)を創業する。同社を退職した後、慶應義塾大学院にて教鞭を執る。90年代後半におけるインターネットの急速な普及に着目し、99年にイー・アクセスを創業。日本の通信事業界の開拓者として知られる。(2012年7月 時点)
※本サイトに掲載している情報は2012年7月 取材時点のものです。

INTERVIEW

なぜ挑戦するのかと聞かれても、これは挑戦した人でないとなかなか分からないものだと思います。私もずっと電電公社にいたら、安定した生活だったと思います。大学の教授をずっとやっていても、良い生活だったと思いますよ。登山と一緒だと思うんです。なんでわざわざあんな大変なところを登るのか、と。やっていることはすごく大変ですし、命を落とす危険もある。でもやっぱり、普通の人では成し得ないような、高い、素晴らしい目標を達成したということを一度味わうと、安定した生活や人生には戻れないものですよ。

時代の流れと世界の流れ

千本倖生

戦中は航空機の設計に従事した父でしたが、戦争が終わると状況は一変していきました。父が勤めていた会社は経営が思わしくなくなり、やがて倒産。両親は自分たちで会社を始めました。今で言うインテリアなどを扱うお店です。それこそ零細ベンチャーですよね。小学校の頃は、よく私も手伝わされましたよ。独立をして事業を運営していくのが、こんなに過酷なものなんだということを、傍で見て感じていました。「絶対にベンチャーなんかやらない!」と思っていましたね。(笑い)

京都大学を卒業後、入社したのは電電公社でした。入社後はすぐ、留学のため渡米。アメリカでは通信分野の最先端を研究していたわけですから、世界の動きには常に関心がありました。元々、電電公社が作られた目的というのは、電話をすべての国民に対して繋(つな)げていくというものでした。1980年くらいになると、ほとんど達成されていくんですよね。そういう意味では、目標を失って行く時期になっていきます。一方で、アメリカを見てみると、一人の男が自分で通信網を創って、MCIというベンチャー企業を創り出したと。すごく新鮮でしたよね。一人の男が世界を変えるのか、と驚嘆を覚えました。

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挑戦を続ける意味

ですから、私が電電公社を退職したのは、時代の流れというのも背景にあるのかもしれません。京セラの創業者である稲森氏と第二電電株式会社を創業したのは、国策企業であるNTTの競合会社を創るためでした。創業から10年ほどした頃、第二電電は社員数5000人を超え、売上高も5000億円を超える上場企業になっていきました。

しかし私は、いつしか渇望にも似たものを感じるようにもなっていたんです。わずか2~3人で始めた事業がどんどん大きくなり、見事に急成長。売上げも伸びるし、利益も出て、何千億円の企業にして、一つのサイクルがある意味で終わっていくように感じたのです。退職後は、起業家養成の教鞭を取る中で、一つのチャンスを見つけることに……。キーワードは「ウィンドウオブオポチュニティ」でした。

それはインターネットの爆発的な普及と関係があったんです。インターネットというのは、今は当たり前になっているかもしれませんが、90年代の日本のインターネットっていうのは、まったく存在感がありませんでした。世界と日本の間に、ものすごい格差がある。そのことを強く感じていました。その格差を感じる中で、やはりこの愛する日本を、世界レベルに何とか持っていけないのかというのが、一つの動機となっていきました。誰もインターネットの高速化ということに関して、主導権を取ろうとせず、会社を創る人もいませんでした。だったら自分がやろう、と。そして設立したのが、イー・アクセスだったんです。

私が思う価値ある人生とは、クリエイティブな目標を設定して、果敢にリスクを取って挑戦するものです。そういう人生の方が、安定性や安全だけを選ぶ人生の100倍の価値があるのではないでしょうか。今日本が世界でトップクラスの国であり、素晴らしい社会をこれからも構成していくことを考えたら、皆さんにはぜひそういったリスクをとっていっていただきたいですね。

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