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ラモス瑠偉
1957年2月9日生まれ、ブラジル出身。1989年11月、日本に帰化し、1990年北京アジア大会、1992年アジアカップ、1993年ワールドカップ予選などで活躍。現在はビーチサッカー日本代表監督を務め、率いる日本代表はアジア王者として、2011FIFAビーチサッカーワールドカップ本大会に出場。
http://www.ramos.jp/
※本サイトに掲載している情報は2011年11月 取材時点のものです。

INTERVIEW

リオデジャネイロでは、子どもたちはみんなサッカーをやっていました。サッカーをやらなかったら、仲間はずれにされるくらい。幼い頃の夢は、ブラジルでサッカーのプロ選手になって、親孝行をすることでした。日本代表になることはおろか、日本という国に来ることすら夢にも思っていませんでした。でも、決めたからには「ブレずに一生懸命」っていうのが私のモットーだったんです。世の中にはいろんなことがあるけれど、そんなに恐れることはない。まっすぐ懸命に歩くことが、どれだけ大事なのかってすごく感じているし、皆さんにも伝えたいです。

日本は遠い国だった

ラモス瑠偉

日本に来ることになったきっかけは、スカウトでした。与那城ジョージさんに声をかけていただきまして。「日本を知っているか?」と。当時の私にとって日本は、あまりにかけ離れた国でしたね。学校の授業でも滅多に出てこない国でしたから。知っているのは、「ヒノマル」と「アリガトウ」くらい(笑)。少しでも母を楽にさせたい、という一心で日本行きを決意しました。

77年に読売クラブに入団して、当時の日本のサッカー事情に驚愕したことは忘れられませんね。ブラジルでは考えられない状況と環境。草サッカーみたいなものでした。ただ蹴って走るだけのサッカー。お客さんはほとんどいませんでした。いとこのカルロスとホームシックになりながら、「もう少しだけ頑張ろう」と励まし合っていました。

その後すぐに出会ったのが、松木安太郎。そこから仲間がどんどん増えていきました。読売クラブに入っていなかったら、3カ月でブラジルに帰国していたでしょうね。本当に運が良かった。

日本へ帰化をしたのは、一人娘であった妻を日本の外へ連れて行くわけにはいかないと思ったから。夢はたくさんあっても、妻は一人だけでしたからね。読売クラブへの恩返しのつもりでもあったんですが、さすがに日本代表への召集オファーがきた時にはびっくりしました。

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結局、この国を愛しているから

日本代表になってすぐの試合で感じたのは、日本人選手の愛国心の無さ。三浦や北沢、柱谷、武田もそんなことを感じていたみたいですが、このままじゃ日本はいつまでたってもワールドカップに行けないと感じていました。正直、この試合の後に日本代表を辞めようと思っていました。

それでも監督が私たちの気持ちをくんでくれて、選手の采配をガラっと変えたんですよね。その後からチームはどんどん変わっていきました。

迎えた94年、アメリカワールドカップアジア最終予選。日本対イラク戦で起こった悲劇はあまりにも有名です。自分たちの実力はそこまでだったのかなあと、本当に悔しい思いでした…。生意気に聞こえるかもしれないけれど、私の夢は日本をワールドカップに連れて行くことだったんです。それが日本への最後の恩返しになるんじゃないか、って。

私自身、1試合1試合「すごい」プレーをしていた訳ではないんですよね。でも、全身全霊をかけて戦っていたことは確か。日の丸を背負ってプレーしているんですから。他の選手がどう思っているかは分かりませんが、私はそうでした。開会式で国歌斉唱する時から、前進の血が速く流れることを感じていましたね。ワクワクとドキドキ。試合の最後の15分とかは、サポーターの声援だけで体が動くんですよ。

今の夢はやはり、サッカー日本代表の監督になること。日本のサッカーを盛り上げていきたいですよね。そして、生まれ変わっても、日本に来て、日本でプレーをして、日本人になって…そして、同じ仲間と一緒にワールドカップに行きたいですね。それが、ずっと変わらない私の夢です。

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