profile
松田公太
1968年12月3日生まれ、宮城県出身。6歳から17歳の大半を、アフリカとアメリカで過ごす。90年、筑波大学国際関係学類卒業後、三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入行。その後、98年にタリーズコーヒー・ジャパン株式会社を設立。2007年には、世界経済会議(通称:ダボス会議)のYoung Global Leaderとして、選出される。開発途上国の飢餓解消に取り組むNPO「TABLE FOR TWO international」理事でもある。
https://koutamatsuda.com/
※本サイトに掲載している情報は2017年8月 取材時点のものです。

INTERVIEW

国政に挑戦すると決めた時は、それはもう大きな覚悟ですよ。個人で考えたら、デメリットの方が大きいと言われていましたから…。でも、自分がデメリットを被ることよりも、日本を元気にしたいという気持ちの方が勝ったんですよね。 どんなに苦しくても、辛いと思うことでも、一生懸命これをやり続けて頑張れば国にとってプラスなるかもしれないと考えたら、楽しくなってくるんですよね。「NO FUN, NO GAIN」で、やるしかないですよ。

コーヒーとの出会い

松田公太

古い友人の結婚式でアメリカを訪れた際に、初めてスペシャルティコーヒーというものを知ることがありまして。それは私にとっては、新鮮であり、驚きでもあったんですね。コーヒー屋さんの前に行列ができていたんです。一杯が3~4ドルというちょっと高い値段で売られていたにも関わらず、皆さんがそれを買おうとしている、と。「それだけ並ぶなら」と思い、私も並んで買ってみると、実際に味もおいしかったんですよね。こんなにおいしいコーヒーなら、日本に持ってきて広げることができるだろうと思いました。

その後、タリーズコーヒー本社に猛アプローチ。最終的には創業者が来日した際に、直談判に出向き、契約にこぎ着けたのです。本社からは「やらせてあげても良いが、1店舗だけ」と条件を提示されていました。要するにフランチャイジーですね。 広尾にテナントを見つけて、話を進めていたのですが、ちょうどその直後に銀座で新しい物件が出るかもしれないという情報が入りまして、見に行ったんですよね。そして、その物件に一目惚れしてしまったんです。広尾の物件に手付金として300万円を支払っていたんですが、それを失ってでも、銀座に出店したいと思いました。それだけこだわりが強かったんです。保証金なども含め、資金計画の倍の費用が結果としてかかってしまいました。

一店目が安定し、二店目の出店をする時、私は人通りのあまりない神谷町というところを選んだんです。周りから猛反対を受けたんですけれども…。なぜそこに店を立てたかと言うと、神谷町周辺には外資系の会社が非常に多かったのです。ですから、外国人の方がたくさんいるとにらんでいたんです。結果的にその狙いが見事当たってですね。25坪の店に、1日1000人程のお客さんが来てくれるようになりました。テイクアウトの比率が8~9割でした。これを参考に、今度は日本で初めて「席のない喫茶店」を大手町につくりました。それも周りからは反対しかされませんでしたね。「席がない喫茶店にお客さんなんかくる訳ないだろう」って。でも、結果的に、それも大当たりだったんですよね。

  • 松田公太
  • 松田公太

手段は変われど、目的は変わらず

もともと50歳まではビジネスをしていたいと思ってしました。でも、党の皆さんと話をしている中で、「そんなこと言っていられないぞ」と強く感じるようになったんです。手段は変わったんですが、目的は何も変わってなくて…。海外との渡しとなって、日本のことを正しく伝えたい、日本の元気さをアピールしていきたい、日本の魅力を伝えたい。もっと言うと、日本を元気にしたいっていう気持ちが私の根底にあるわけですよね。取り返しのつかない事態になる前に、日本は政治が変わらないといけないんだ、と強く思うようになったのが国政への参画に踏み切ったきっかけでした。

私がとても大切だと思うのは、目的と目標を持つこと。目的というのは、見定める的(まと)だと。一気にそこまで飛ぶ事はできませんから、標(しるし)を付けていく。そういう意味で、目標というのは、見定める標ということなんです。その双方を持ってこれから歩んでいただきたいと思います。そうすれば、本当に充実した時間を過ごせるのではないでしょうか。いくのがとても大変になると思うけど、あまり深く考えずに行動してみてください。

ページの先頭へ