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黒崎史朗
1970年生まれ、東京都出身。
https://tokyoshinkenso.com/
※本サイトに掲載している情報は2013年10月 取材時点のものです。

INTERVIEW

昔から、新入社員には「全員が経営者だ」と伝えています。社員たちが与えられた仕事しかしなかったら、会社の成長はありません。困った時に手を差し伸べ合うのが仲間だと思うんですよね。もちろん社長というポジションである私が社員たちの面倒は見ますが、社員一人ひとりが経営持論を持ち、仲間と切磋琢磨すれば、全員が経営者のようになれるし会社も大きくなると考えています。

苦しい時期を乗り切れた理由は

黒崎史朗

会社を設立したのは父です。子供の頃は、父が何の仕事をしているのかよく知りませんでした。父と遊んだ記憶はほとんどありません。学校の勉強はいまいちでしたが好きな事には一直線で、楽しい学生時代を過ごしました。

高校1年生の時に父が他界してしまったのですが、葬儀では参列者の多さに驚き、「見送ってくれる人がこんなにいるってすごいな」と思ったんですよね。この時、会社を継ぐことを決意しました。

入社したのは23歳の時。最初の1年間は寝る間も惜しんでカタログや建築本を読みあさり、専門用語も覚えました。感覚を磨くために、現場の職人さんをはじめ、とにかく色々な人と会って話をしました。「先代の息子」という色眼鏡で見られたくなかったので、毎日必死でしたね。

30歳の時に代表取締役に就任しましたが、この時期は経営が非常に苦しく、重圧で眠れない日々を過ごしました。父に代わって経営の面倒を見てくれていた叔父も他界してしまい、誰にも相談できないことがつらかったです。お客様には頭を下げ、メーカーや職人さんにも支払いを待ってもらってどうにかやりくりした時期もありました。ある時、お客様の一人が「お前だからしてやっている」と言ってくださって。スタッフや仕事仲間たちも同様でした。ありがたかったですね。私もそんな彼らに全幅の信頼を寄せていたし、彼らのために何ができるかを考えながら乗り切りました。今でも、仲間を大事にする事を常に心掛けています。苦楽を共にしてきた仲間たちは家族のような存在です。

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力を発揮できるフィールドを用意する

元来うちは大手ゼネコンが主要クライアントで今でも収益の大半を占めますが、ゼネコンの仕事で培った技術力を生かしたくて個人のお客様からも受注を始めました。光触媒の力で建物の外壁を美しく保つ「K2コート」、光エネルギーで建物内の温度を適温に保つ「光冷暖」の普及にも注力しているところです。最近は、施工だけではなく設計から依頼いただくことが増えてきました。わが社で設計から手掛けたことはないのですが、宅建のライセンスを取った社員がいるので今後は彼に任せていければいいなと思っているんです。さらに不動産のライセンスも取れば、土地購入から新築の設計、中古物件のリノベーション、その売買まで手広く手掛けることができます。いずれ社内に「不動産部門」を設けて彼にはそのトップになってもらいたい。不動産以外にも、光冷暖やゼネコンなどの部門もつくりたいですね。部門に分けて業務を分散することで、社員の活躍の場を増やせると思います。

よく新入社員に「どんな免許を取ればいいですか」とたずねられますが、何でもいいんです。自分の持ち味を生かしたライセンスを取ればいいと思っています。彼らの能力を引き出すのは私の役割ですから。

社員たちの適性を見極めて、彼らが能力を生かせるフィールドを用意しておくのが経営者の仕事。彼らがスキルアップして戦力になってきたら、私が用意したフィールドですぐに力を発揮できるようにしてあげたいんですよね。これは現場でも同じことがいえます。営業先で打ち合わせをする際にお客様とうまく関係を築いて、あとで現場に入る職人さんたちが仕事をしやすい環境を用意してあげれば、彼らはスムーズに始動できるはずです。

私自身が野心家で、今もヘリコプターのライセンスを取りたいと思っているし、やりたいことは山ほどあります。社員には、何をやれと指図するのではなく、本人がしたいことをやらせてあげたい。したいことと向き合って、きちんとしたシナリオを描けるのであれば、何でもやってみればいいと思っています。

これからの社会を担う若い人たちは、物事に対して妥協せず、思い悩み試行錯誤し、実践の中で鍛えてそれを継続していくことが大切です。そして何より、両親や家族、人への感謝の気持ちを忘れないでほしいと思います。

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