- 栗原秀行
- 埼玉県出身。岩手医科大学大学院修了後、八戸赤十字病院眼科部長、富山医科薬科大学(現・富山大学)講師を経て1984年に栗原眼科病院を開業。年間3000件前後の手術を行い、地域医療への貢献と最先端医療への挑戦を続けている。
- http://www.kurihara-eye.or.jp/
うちは個人病院でありながら設備には投資を惜しみません。患者様や若い医師たちが困らないように常に最新でベストなものをそろえるようにしています。人材教育にも注力しているので、若いスタッフを学校に通わせたりもします。いずれもコストがかかることです。でも、私は「コストをペイする」という考え方はしません。本来、医療機関の収支はプラスマイナスゼロぐらいでいいと思いますね。おかげでぜいたくとは無縁の生活をしていますが、本業に専念して誠実にやっていれば、赤字になることはありません。
5つ上の姉が熱心に文字を教えてくれたので、幼い頃から一人で本を読んでいました。小学校に上がる前には大人の読むような本を読んでいましたね。父が婦人科医だったこともあり、高校生の頃には自然と医師を目指すようになりました。一人息子の自分が家を支えなければいけないだろうと思っていましたし、サラリーマンのように組織の歯車となって定年まで働くよりは、自分でこつこつと実績を積み上げて一生の仕事をすることに魅力を感じました。
医学生の時、趣味の射撃競技団体を通じて眼科の先生方と知り合ったのですが、非常に優秀で人柄も素晴らしい方々で、理想を掲げて追求する診療の姿勢には大きな影響を受けました。この先生方との出会いがなければ眼科を専攻することもなかったかもしれません。その頃は眼科の分野で急激な発展があり、毎月教科書の内容が差し替わるような激動の時期でもありました。
大学病院の勤務医や講師を経て、独立したのは84年、私が37歳の時です。体調を崩した母の存在が開業を後押ししてくれました。病院が少ない地域だったこともあり、開院初日から100人を超える患者様の来院がありました。大変だったのは人材集めです。最初は働き手が足りなくて苦労しましたね。来てくれたスタッフたちが少しでも長く働いてくれるように、資格を持たない若いスタッフを学校に通わせ、勤務体制にも気を配り、できる限りの配慮をしました。これは今も力を入れている部分です。いつか「あの時、栗原先生のところで学んだからひとり立ちできた」と思ってもらえたらうれしいですよね。
医院を法人化して眼科専門病院にしたのは開業から3年後のことです。全国に眼科専門病院はいくつもありますが、大半は症例の多い白内障治療を前面に掲げています。でも私たちが心掛けているのは、特定の症例にこだわらず、眼科の分野でできることは何でもやるということ。オールラウンドでありたい。そうじゃないと、うちに来てくださる患者様に失礼だと思うんですよね。だからできないことがあれば、必ず外部からその領域のエキスパートを呼んで治療を見学させてもらい、勉強するということを繰り返しています。
まれに他の病院を紹介することもありますし、患者様の希望があれば紹介状も書きますが、送り先の病院が私たちとどこまで同じ危機感や温度感で患者さんの症例に対応するか分からない不安はありますね。だから、できる限り自分たちで学んで習得し、ステップアップする。それを30年間積み重ねてきたわけです。今後も継続して、多くの領域をカバーできる体制を目指したいですね。スタッフには本当に恵まれていると思っています。うちの医師たちは感動するほど美しい手術をするんです。やるべきことを着実に積み重ねて、正確に丁寧にやってきた結果でしょうね。スタッフが成長するために、私は指図ばかりせず、能力に応じて自由に何でも挑戦させてきました。もちろん何かあれば私が責任を持って解決するようにしています。チャンスを与え、お膳立てをしてあげれば人は無限に伸びるはずです。私もまだ現場で手術をしますが、現役にこだわりすぎず、晩年をどう楽しむかをこれから考えていきたいですね。
私のモットーは謙虚に挑戦すること。どんな領域でも、私たち以上の技量と知識を持った人はいくらでもいます。そんな方々への敬意と感謝の念を持ちながら、いつも様々なことを教えていただいています。そして、患者様の症状が少しでも良くなる可能性があれば、採算を度外視してでも必要な設備を整えて治療に当たっていきたいですね。どんな立場の人にも、それぞれ同じだけのチャンスと挫折があるものです。自分が目指すものを明確にし、学ぶ対象や自分を支えてくれた人達に対して謙虚でなければチャンスを生かすことはできません。挫折もあるかもしれませんが、それも次の進歩と発展のための一歩だと実感しています。
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