- 橘高勝人
- 1958年生まれ、東京都出身。76年、早稲田大学入学と同時に家業の橘高畳店で修業を開始する。80年、同大学を卒業し、82年に法人化。現在、25カ所の工場で年間120万枚の畳とふすまを生産している。
- https://www.kitsutaka.co.jp/
常に新しいアイデアを模索し、実践して、社員たちの士気を高められるようなリーダーでありたいと思っています。ただ、社員たちに「仕事を与えている」という考え方ではいけません。彼らに製品を作ってもらっている、運んでもらっているという気持ちを忘れず、みんなと同じ立ち位置で同じ目標に向かいたいと思います。
父は畳屋を営んでいました。土間のほの暗い作業場で父はいつも畳を縫っていて、家を出入りするのに藁(わら)くずの上をざくざくと踏んで通らなければいけませんでした。私は長男でしたが継ぐのは嫌だと思っていましたし、父も「この先、畳屋なんて伸びない」と、自分の代で看板を降ろすつもりだったようです。
私は幼少期にお世話になった医師に憧れ、医学部を目指して一生懸命勉強していました。ところが高校3年の時、父が脳こうそくで倒れたのです。一命は取りとめたものの、体の自由が利かず働けなくなってしまいました。ある晩、いつものように受験勉強をしていると、母がやってきて「運転免許を取ってくれないか」と言うのです。母の顔には深い疲労の色がにじんでいました。「分かった」と答えるしかありませんでした。これが宿命だと思い、医学部を諦めて家業を継ぐ決心をしました。運転免許を取り、父が手掛けた畳の縫い跡を見て同じ仕上がりを目指すことから始めました。自分で畳を縫って納品できるようになった頃のことです。軽トラックに数枚の畳を積んで走っていると、大通り沿いの大きな新築マンションの前に4トントラックが停まり、何百枚もの畳を搬入しているのが目に留まりました。自分もいつか大型トラックいっぱいの畳を運びたいと思いました。
すぐに大手ゼネコンに営業をかけて「畳を入れさせてください」と頼み込むと、対応してくれた副所長が私の名刺を眺め、「大きな現場で仕事を取りたいなら法人化したほうがいいよ」と助言してくれました。右も左も分からない中、周囲の協力を得ながらどうにか法人化し、少しずつ仕事の規模を拡大していきました。やがて36階建てのマンションに3000枚の畳を納入する仕事を獲得するようになると、これまでの作業所ではとても対応できないので、農地にプレハブの工場を建てて量産体制を整えました。買ったばかりの4トン車いっぱいに積まれた畳を運転席から見た時、体中の血が沸き上がるような興奮を覚えました。
売り上げの数字は1億円を突破したものの、資金繰りは悪化していた時期がありました。大規模な新築の案件は工期が長いために入金までのタイムラグがあるからです。幼い子どものためにためていた貯金を崩し、従業員の給料や支払いに回してしのいだのは苦い経験です。新築だけではなくリフォーム業者とも取引するようになり、資金繰りはようやく安定していきました。その後、大型畳生産システムの導入や多店舗展開で、私の会社の畳の生産量は日本一になりました。
出張でベトナムを訪ね、現地の人と話をした時、畳がそれほど知られていないことが分かりました。畳や障子、ふすまなどの和室の文化は海外での認知度はまだ低く、畳屋としてこれからたくさんの国に届けていかなければならないと感じています。どんなシーンやインテリアにもマッチするところも畳の魅力の一つです。デザインと機能性を高めることで、リビングやダイニング、ベッドルームはもちろん、バスルームにも置くことができるので、日本の文化になじみがなくても、取り入れやすいはずです。ある統計によると、家の中で靴を脱ぐ習慣のある国は新型コロナウイルスの死者数が少ないことが分かっています。日本の家は玄関で靴を脱ぐように設計されているため、汚れや細菌を部屋の中に持ち込むのを防ぐことができます。また、裸足でいることで足が蒸れるのを防ぎ、菌の繁殖を抑えて清潔を保つことができます。さらに、畳の素材であるイグサに含まれるバニリンという成分の香りは、人の心に安らぎを与えたり集中力を高めたりする効果が期待でき、心身の健康に寄与するとされています。こうした畳をはじめとする和室の魅力や心地良さを、ショールームやWEBを駆使しながら世界に発信していきたいです。
若者のみなさんは、まず自分のしたいことや目標を見つけてください。そして、達成するにはどうすればいいのか、道筋を描いてください。うまくいかないこともあるかもしれませんが、一度や二度の失敗にめげることなく、実現のために謙虚な気持ちを持って、まっすぐに向かってほしいと思います。一緒に頑張りましょう。
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