- 加藤順一
- 大学卒業後、大手ゼネコン(飛島建設)に就職。14年間現場を経験した後、1991年 営業職として大勝建設に入社。
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当社は建設業を主要事業に据え、商業ビルやマンション建設、戸建て住宅や不動産業と幅広い事業を展開してきました。そのほか2004年からスタートした関連会社リフシアでは介護事業を立ち上げ、14年には子会社となるリフシアネットも設立。介護に関わる高齢者向けの食の提供も行いながらグループ会社として成長を続けています。今ではグループの拠点となる神奈川県の茅ヶ崎を中心に、地域に根付く企業として創業から110年を迎えました。
1910年に私の祖父が大工から事業を立ち上げた当社は、当時から地元・茅ヶ崎に貢献することを生業としてきました。その後、時代は昭和を迎え、日本は高度経済成長期に突入。東京オリンピックのあった58年には公共事業が栄え始めことを機に、茅ヶ崎を拠点とした地域産業の歩みも大きな発展を遂げています。まさに地域とともに成長し、地域に支えられながら成長した企業といえるのです。
茅ヶ崎は現在人口24万人を数え、神奈川の中核都市として位置付けられています。湘南エリアをはじめとする県や市の公共案件だけでなく、昨今は住宅需要も増えてきました。こうした地域に貢献することが、我々の強みにもなっていると思っています。私自身も茅ヶ崎で生まれ育ち、自然豊かなまちを愛している一人です。だからこそ経営においても大切にしていることは、地域や時代の変化に柔軟に対応しながら、様々なニーズに応えていくことです。前述した通り、私の祖父は当社の創業者であり大工でした。父もその後を継ぎましたから、まさに大工一家の家系です。しかし幼い頃の私には“継ぐ”という意識はあまりなく、自然豊かな土地で野原を駆け回り、野球に没頭する少年時代を送っていました。
そして最初の転機は、中学時代に家族で行った大阪万博でのこと。生まれて初めて建築の素晴らしさに触れ、建築というものに興味を持つ一つのきっかけになりました。その後、高校時代には当時首相であった田中角栄が日本列島改造論という著書を出し、国土を作ることは日本を作る上で非常に重要な産業だと認識するようになりました。そして大学では建築科の道へ進んだのです。大学卒業後はゼネコンに就職し、現場監督を14年間にわたり経験しました。当時は様々なマンション建設や公共事業に携わり、何十億円という建築予算規模の案件にも関わってきました。大きな責任感を持って仕事と向き合えた分、そこで学んだ経験が現在の礎にもなっています。
しかしそんな矢先に父が病に倒れ、突如として家業に戻る決意を固めることになったのです。
1991年には家業に戻り、まずは営業に専念しました。営業職はゼネコン勤務時代も未経験だったため、たくさんの苦労を経験ました。しかし、どんな場面でも大きな支えになっていたのは、人と人とのつながりです。常に苦労の先では人に助けられてきたと思いますし、人財は宝だと常々感じてきました。そして営業職にも徐々に慣れ、4、5年が経った頃に父が他界。日本経済はバブルもはじけ、時代と共に建設業の様相も大きく変貌していた時期とも重なります。当社の営業先も年々減少し、廃業に追い込まれる同業他社も目の当たりにしていました。このままでは建設業も厳しいという危機感を感じながら、私は父の他界を機に常務取締役に就任することになったのです。もっともっと新しいことにチャレンジしていかなければいけない。そんなと思いがふつふつをこみ上げていました。
そして、公共事業をメインに注力しながらも、2000年には戸建て住宅の建設事業を見直していきました。見直し当初はクレームが続く状況もありましたが、トライアンドエラーを繰り返すことで事業の立て直しに成功。また時代のニーズを見つめなおした結果、同じく2003年には自社の資材置き場を活用し、介護施設を建設しました。これは当社の歴史上でも例のないチャレンジだったため、たくさんの協力者を募り、前職の医業経営コンサルタント資格を有する人材や介護実務に精通している人材の協力を得て、一から仕組み作りをしていきました。とても大変なプロジェクトでしたが、その時の苦労がさらに地域に貢献できる当社の強みに変わっていきました。それから毎年一つか二つのペースで介護事業を拡大し分社化していきました。現在は茅ヶ崎に7事業所、藤沢に4事業所を展開するまでに至っています。職員も約450人を数え、事業としてだけでなく、雇用の面でも地域に貢献できたと自負しています。
コロナショックを迎えた今、建設業界はまた新たな局面を迎えようとしています。今後も世の中の変化をつぶさに見つめながら、地域との絆を強め、地域と共に成長していきたいと思っています。