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伊勢崎賢治
1957年生まれ、東京都出身。東京外国語大学教授、同大学院教授(紛争予防と平和構築講座長)。内戦初期のシエラレオネを皮切りにアフリカ三カ国で10年間、開発援助に従事。東ティモールでは国連PKO暫定行政府の県知事を務める。その後シエラレオネで武装解除を担い内戦の終結に貢献。日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除を担当。 著書「武装解除紛争屋が見た世界」(講談社現代新書)など多数。
http://www.tufs.ac.jp/common/pg/pcs/About/Mission/
※本サイトに掲載している情報は2012年6月 取材時点のものです。

INTERVIEW

今の若い人たちの志の高さには本当に頭が下がります。「イマドキの若い者は」なんて口が裂けても言えないですよ。国際情勢や国際組織への関心も私たちの時とは比べ物にならないほど高いし、社会性、国際性にかけては戦後のどの世代よりも優れた感性を持っていると思います。そういう感性をなりわいにできるようなキャリアのインフラが日本にないのは、私たち大人の責任です。

留学先で40万人の群衆を指揮する羽目に

伊勢崎賢治

私は東京都立川市で生まれ、母子家庭で育ちました。絵画が得意で学校の先生には美大を薦められましたが、大学院まで行って建築や都市計画を学びました。整然としているよりも雑多な雰囲気のほうが好きで、不謹慎かもしれないけど、貧民街のような所に興味があったんですよね。それが高じて、発展途上国のスラムの問題を研究するためにインドに留学しました。

インドでは実際にスラムの中に飛び込んでいって、住ませてほしいと頼んだんです。私が転がり込んだのは、社会運動をやっているグループのリーダーたちの家でした。そもそもスラムの住人というのは不法占拠者です。そのうち強制立ち退きが始まって、私も巻き込まれました。しまいには40万人の住民組織をつくり上げて、住民運動を指揮する羽目になったんです。

スラムだけで街の人口の半分以上を占めているような状況だったので、彼らが団結すれば間違いなく大きな力になるんだけど、宗教がらみで敵対したりしてまとまらないんですよね。それをまとめるのが私の役目でした。もちろん、報酬もきちんと頂きます。ところが「反政府運動を指揮した外国人」としてインド政府に目を付けられてしまい、4年半で国外退去になりました。帰国しても日本にはこういう経歴を活かせるような職業もなかったので、待遇の良い大規模の国際NGOに就職しました。

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今はジャズトランぺッター

最初に、シエラレオネという人口400万人の小さな国に赴任しました。私が任されたのは国の3分の1ぐらいの大きさの活動区。そこに学校や病院を設置し、貧困を解消すべく生活インフラを整備したんです。現地の市会議員も務めました。他の地域と比べて子供の死亡率も格段に下がりました。ところが赴任中に革命ゲリラが蜂起して内戦が始まったんです。内戦は10年にも及びました。その間私は東ティモールに赴き暫定政権下で県知事を務めていたのですが、内戦が9年目を迎えた時に国連からゲリラ兵の武装解除を要請され、再びシエラレオネに赴きました。革命はいつしか大義を失い、殺し合いに発展していました。少年兵は大人の兵士より残酷です。まだ分別が働かないから、残虐性を競うようにして人を殺してしまいます。ゲーム感覚ですよね。私がつくった小中学校を出てる子もいるわけですよ。人権教育も導入していたんですけどね。すごくやるせないし、国連とか国際社会で働くのはもういいや、とまで思いました。

米国同時多発テロの後、今度は外務省職員としてアフガニスタンでの武装解除を指揮しました。国連では、幹部が部下の安全を守るために必要な訓練をたくさん受けます。平和十字軍もあるし、危機管理体制がしっかり整っています。初めて日本の外交官として行ったのですが、国連みたいな危機管理体制がないんですよ。今度ばかりは死んでしまうんじゃないかと思いましたね。だから思い残すことがないように、憧れだったトランペットを買って、現地に持っていきました。

今はジャズトランぺッターとしてお金も頂いてます。プロと名乗るのはおこがましいかもしれませんが、資格試験があるような世界ではないですからね。歯が抜けるまで続けたいと思っています。若い人が日本だけじゃなく世界に目を向けるのは本当に立派ですが、「何とかしなきゃ」と意気に感じるあまり無理しすぎないように。恋とか音楽とか、身近なことにも目を向けてくださいね。

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