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堀場厚
1948年生まれ。京都府出身。71年、甲南大学理学部卒業後、渡米しオルソン・ホリバ社に入社。製品の海外オペレーションに従事。カリフォルニア大学大学院工学部電子工学科修了。77年に帰国し、堀場製作所海外技術部長に就任。92年、代表取締役社長。現在、代表取締役会長。世界22カ国43社で分析・計測システムを提供。著書に「京都の企業はなぜ独創的で業績がいいのか」(講談社)。
https://www.horiba.com/int/
※本サイトに掲載している情報は2013年12月 取材時点のものです。

INTERVIEW

若い人たちには、今の環境に甘んじることなくどんどん外に出てみてほしいと思います。いつもの居場所から外に世界を広げることで学ぶことはたくさんありますし、それを超えることで結果的に自信につながっていくと思います。皆さん、ぜひチャレンジして下さい。

渡米の夢はかなったけれど

堀場厚

私が生まれる3年ぐらい前に、父が今の堀場製作所の前身となる堀場無線研究所を創業したんです。物心がついた頃には家の中に実験器具があふれていましたね。幼い頃は水銀やガラス管をいじって遊んでいました。そんな環境で育ったので、従業員が7~8名の時代からずっと会社の一員のような感覚でした。

大学を卒業したらアメリカに行きたいと思っていたんです。両親に話をしたら、ちょうど堀場製作所の合弁会社をアメリカで立ち上げたところだったので、出向させてもらうことにしました。

渡米の夢がすぐにかなったのは良かったのですが、いざ仕事をしてみると苦労の連続でした。海外に輸出した製品のサポートに取り組んだのですが、なかなか軌道に乗せることができず赤字が続きました。当時は、海外展開に必要なドキュメンテーションが不完全だったんですよね。品質トラブルが起こった時にうまくサポートできず、本社にカバーしてもらうこともしばしば。帰国の度に本社から責められ苦い経験をしました。

帰国後は海外技術部という部署を任されました。私のほかに課長と若い女性1名がいるだけの小さな部署です。海外展開には技術的なサポートが不可欠だと在米中に痛感したので、海外向けに英文のドキュメンテーションを作成し、次第に海外の子会社のオペレーションなども見るようになっていきました。

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「信念を通せ」父の言葉が後押しに

92年、44歳の時に社長に就任しましたが、ちょうどバブル崩壊の時世でこれまでの成長感が急激に停滞するタイミングでした。わが社も例に漏れず、社長就任直後からさっそく減収減益に悩まされました。だからこそいろんな改革に乗り出したのですが、従来のやり方を変えることで当面の効率は落ちるし、開発投資の経費はかかるし、表向きの数字は悪化するばかり。

それでもかなり強気でやってきたのですが、3年ほどたった頃ひどく頭痛がした時期があって、精神的なものかなと思いました。そのときに父が「改革をしてすぐに良い結果が出ることなんかない。おまえは社長なんだから、自分の信念を通したらどうだ」と言ってくれたんです。この言葉にはとても救われたし、うれしかったですね。結局、頭痛は冬にスキー場で転倒して首を痛めたのが原因だったことが分かり、すぐに良くなりました。

社長に就任して3年ほどは低迷が続きましたが、いろんな改革を推し進めた末にV字回復を果たすことができました。

現在、M&A(企業の合併・買収)を積極的に行い、海外事業を強化しています。M&Aというと他社の製品や工場を買収するイメージが強いかもしれませんが、私にとっては人財(人材)を手に入れることなんです。せっかく手に入れた人材を適切にマネージできないと意味がないので、事前に必ず現地に赴きトップの方と直接話をして、お互いに良い協力関係を保ち続けることができるかを見極めるようにしています。

うちには飛び抜けてすごい従業員はいませんが、彼らがチームを組むことで素晴らしい力を発揮できるんです。私は彼らのことをよく教会のステンドグラスに例えます。ステンドグラスって、破片のひとつひとつをよく見ると形がいびつだったりして完璧ではないんですが、全体を見るととても美しい輝きを放っていますよね。どの破片もひとつとして欠かすことはできません。世界各地の従業員一人一人がかけがえのない存在です。会社では、彼らが本音でコミュニケーションを図れるような環境づくりに注力しています。

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